SIGHTSEEING

おすすめの観光地をセレクト!

麒麟がくる ゆかりの地めぐり

2021.01.29

[福知山城]
天正7年(1579年)の丹波平定後、光秀が丹波の奥郡・丹後の押さえとして築いた城です。本格的な石垣作りで瓦葺の天守を持った姿は、圧倒的な威容を誇ったと思われます。

[明智藪]
光秀は、築城とともに城下町をつくり、町民には地子(土地にかかる税)を免除し繁栄の基をつくりました。さらに堤防を築き、由良川の流れを変え、その支流・士師川と合流する川岸に竹を植え、洪水に備えたと伝わります。

[御霊神社]
光秀の霊を祀る唯一の神社。福知山の治安と町民の地税免除を与えた光秀に感謝し、宝永2年(1705)に御霊を祀ったのが始まりです。元文2年(1737年)には御霊会も許可され、光秀の恩恵は町民に長く伝えられてきました。光秀の家中軍法等、貴重な文章が伝わります。

[猪崎城跡]
地元の豪族、塩見(横山)氏の城との伝承があります。鬼ヶ崎の、由良川を望む丘で曲輪・空堀を備えた山城です。

[天寧寺]
室町時代開創の、地元豪族大中臣氏が招いた、名僧愚中周及を開山とする、足利氏とも縁の深い古刹です。ここには、光秀と明智智弥丘次秀満の諸式免許等を与えた文章が残っています。

[威光寺]
福知山城築城の際、光秀に反する近隣の寺院が破壊され、石材等が運び取られてしまいました。当寺も取り壊される中、住持と軍使が互いに美濃の出身であることが分かり、作業は中止され、ひいては寺の安泰を図ることができたといわれています。

[鬼ヶ城跡]
標高544m。福知山盆地を見下ろす山は、丹波・丹後の国境にあります。「信長公記」によると、天正7年(1579)7月19日、光秀軍は宇津(京都市京北町)を攻撃した後、この鬼ヶ城へ攻め寄せ、近辺を放火し、付城を構えて丘を配置したとあります。相手は当地の士豪、塩見(横山)氏または天田郡を支配下に置いていた赤井(萩野)氏といわれています。

[山家城址公園]
光秀の丹波平定の際、山家城城主・和久氏は明智軍に降伏したものの、城の破却命令に応じなかったため、追討されたとされています。本能寺の変の後、羽柴秀吉により山家藩主に任命された谷衛友が、そこに次の山家城(のちの山家陣屋)を築城しました。

[雫(しずく)松]
志賀郷七不思議の雫松が福知山城の天守閣の棟木に使用されています。明治初年の天守閣解体の時、その由が記されている棟木が発見されました。現在、雫松の皮の一部が志賀郷公民館に保管されています。厚さが約10cmもある巨大で見事な松皮です。

[長福寺(向田の観音さん)]
光秀丹波攻略の際、家来の山城守に別所願成寺を討伐され、戦賞として聖観世音を与えました。その輸送の際、休息したこの地で金縛りにあったように動かなくなったため、観音様を泰安したと言われています。

[田辺城跡(舞鶴公園)]
織田信長の命を受け、光秀とともに丹波攻めをした細川幽斎が拠点にしたのが田辺城です。現在は本丸と二の丸の一部が舞鶴公園として整備されており、大手門と模擬二重が復興されています。園内には田辺城資料館があり、幽斎を中心とした歴代城主や、城下町・田辺の歴史を紹介しています。

[舞鶴市郷土資料館(ふるさと発見館)]
細川幽斎に関する資料としては、江戸中期の史料「嶽家文書(だけけもんじょ)」が保管されています。その中に、明智光秀の家臣と細川藤孝(幽斎)が2羽の鶴を馬で追いかけて、鶴が舞い降りた地に田辺城を築いたという描写があり、これは光秀が部下を派遣し、幽斎の築城を手伝ったことを表したものと考えられています。

[桂林寺]
関ヶ原合戦の前消戦として、石田三成方1万5千人の軍勢が田辺城を攻めました。この時、城を護る細川幽斎の軍勢はわずか500人だったのですが、西軍の進軍を足止めし、東軍の勝利に貢献しました。桂林寺は、籠城戦の際に、当時の住職であった大渓が弟子14人をひきつれ幽斎軍に加勢したといわれています。

CONTACT

おふたりの特別な瞬間をカタチに