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中将姫の姿をたどる

2021.05.03

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中将姫を知っていますか?
天平19年に藤原豊成の娘として平城京で生まれた奈良時代の女性です。生身のまま極楽へ従生したと伝えられる姫君の生涯は、文楽や揺曲、歌舞伎などの題材となって、今なお語り継がれています。
藤原豊成夫妻が長谷寺の十一面観音様に祈願して授かったという中将姫。そのせいか、幼い頃から仏教を篤く信仰し、称讃浄土教を毎日6度読経し、1000巻の写経を行うほどでした。今なお伝わる多様な説話、不思議な伝説を通じて、一人の女性の生き方をたどります。
中将姫の父、藤原豊成は、藤原不比等の息子・武智麻呂の長男です。今でいう奈良市の「ならまち」に豊成の邸宅があり、そこで中将姫が生まれ育ったという伝承が、いくつかのお寺に残っています。
中将姫は幼くして実母を亡くし、姫は亡き母の菩提に称讃浄土教の読経と写経を始めるようになりました。父が迎えた後妻つまり継母は聡明な姫を妬み、次第に命を狙うまでになります。
14歳の頃、周囲の人々の助けを借りて継母の手を逃れ、現在の宇陀市にある日張山に隠棲します。この山中での静かな暮らしは中将姫が仏様と向き合う大切な時間だったのかもしれません。のちに中将姫は薬学の知識を学び、かつて自分を助けてくれた宇陀の村人たちに薬を作る作法を伝えました。また19歳のとき、この場所に創建したお寺が現在の日張山青蓮寺です。
隠居していた中将姫は、宇陀に狩りに来た父・豊成に偶然発見され、都に戻ります。このころ中将姫には天皇の妃に召し上げるという話が持ちかけられますが、姫はこれを拒否します。
妃になることを拒否した中将姫が家を出てたどり着いた場所が、現在の葛城市にある當麻の地でした。當麻を選んだ理由については、実母の里が當麻であったという説、仏画の「山越阿弥陀図」などに表現されているように、二上山に阿弥陀様の姿を感じ得て、その姿を追ってきた説など様々ですが、姫は當麻寺に入山したい一心で、寺の入り口で読経を続けます。
当時の當麻寺は女人禁制でしたが、その行いを見た当時の當麻寺別当・実雅和尚は、中将姫を迎え入れました。翌年には、剃髪の儀が行われ、中将姫は出家して「法如」という名前を授かりました。當麻寺中之坊には剃髪が行われた剃髪堂と、その時に剃髪した剃刀が宝物として伝わっています。
出家した翌々日、中将姫の前に一人の老尼が現れ、「蓮の茎を集めよ」と告げました。そこで中将姫が角刺神社の池に蓮を取りたいと祈ると、数日で多くの蓮糸を採ることができました。
當麻寺からすぐの石光寺には、中将姫がこの蓮糸を寺内にある庭の井戸に浸したところ、蓮糸が五色に染まったという伝承が残っています。そして中将姫が観音菩薩の助けを得て、一夜にして巨大で鮮やかな織物を織り上げました。それが當麻寺本堂の本尊・當麻曼荼羅と伝わります。
曼荼羅が織り上がってから12年、中将姫は教えを説き続け、29歳で生身のまま極楽浄土へ旅立ちました。その様子を伝えるのが毎年4月14日に當麻寺で営まれる行事です。二十五菩薩に迎えられ、あの世へ向かったという中将姫。信心深く生きた女性のお墓は當麻寺近くにひっそりと建っています。

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